縁起

あびこ山観音寺の創設

あびこ山観音寺は、今から千四百二十余年前の欽明天皇七年(西暦五四六年)に創建された、わが国で一番古い観世音菩薩の佛閣です。

御本尊の「聖観世音菩薩」は、身の丈一寸八分(およそ5.5㎝)の閻浮檀金(えんぶぶだん)注1いわゆる三国伝承の請来仏(しょうらいぶつ)注2です。その頃、朝鮮半島に派遣されていた膳臣巴提便(かしわで の おみはてび)という豪族が、百済の聖明王から日本の国土安泰を祈ってわが国に託された、もと任那(みなま)の牟婁(むろ)に所在する大伽藍注3のご本尊の胎内仏でした。巴提便は謹んでこれを捧持(ほうじ)し、帰朝しましたが、そのころ仏像は正式には飛鳥の都に持ち込めなかったので、やむを得ず難波依羅郷(なにわよさみのさと)の我孫子浦の丘に草庵を建て、そこに安置しました。

すると、誰がいうともなく″霊験あらたかな仏がまつられている″と伝えられ、土地の豪族であった依網吾彦(よさみ あびと)や、付近に定住していた漢人(帰化人)たちが、たくさん集まって信仰し始めました。

しかも、ご利益が日を追うごとにあらたかなため、それが非常に評判になりました。

ところが、創建六年後に、時の権力者であった物部守屋(もののべのもりや)らが、排仏運動を起こして仏教徒を弾圧し、仏殿を焼き、仏像を捨てはじめました。あびこ浦の聖観世音像が、いつの間にか草庵から消えうせて行く方が知れなくなったのは、その頃のことでした。

こうした騒ぎがあってから三十五年後、聖徳太子によって排仏派も滅び、「仏法興隆の詔」が発せられました。依網一族や漢人たちも歓喜し、行く方不明になっている尊像を探ね回る一方、任那に渡って、今度は伽藍の御本尊「聖観世音像」を請い受け、それを、あびこの草庵に安置し、厚く奉りました。

それから二十年後の推古天皇十四年(西暦六〇六年)の五月、聖徳太子があびこ浦にお成りになり、偶然この「観世音像」に御対面され、詳細にその縁起に耳を傾けられました。そのとき、聖徳太子が「あびこ浦は風光明眉にして観音霊場にふさわしい浄域である。直ちに伽藍を起こして観音道場とするがよい」と仰せられ、莫大な財貨を下賜されましたので、信徒たちは大変喜びました。

そして十二年の歳月を費やして造営に努め、ついに寺域が壮大で、補陀洛(ふだらく)注4浄土かと思わんばかりの荘厳な聖観音寺の落慶にいたりました。

時は推古天皇二十六年(西暦六一八年)の四月十八日、難波津の墨の江(すみのえ)津の一帯は喜びに沸き立ったと伝えられています。

(注1)閻浮檀金(えんぶぶだん)印度における黄金の名称。

(注2)三国伝承の請来佛(しょうらいぶつ)印度、支那(朝鮮を含む)、日本と順次伝わった仏像のこと。

(注3)大伽藍(だいがらん)七堂伽藍の完備した寺院(仏閣)のこと。七堂とは金堂、講堂、食堂、鐘楼堂、大門、中門、五重塔のこと。

(注4)補陀洛(略したもので、正しくは補陀洛伽(ふだらか)という)印度の南海岸に所在し、観世音菩薩が常住された聖地として古来伝えられ、転じて観音さまのお浄土の意となった。

聖観世音の出現と行基菩薩

あびこ山観音寺の落慶百二十七年後の天平十七年(西暦七四五年)の秋、聖武天皇が難波の宮でご病気になられ、名医の薬でも、高僧の祈祷も効果がなく、病状は悪化する一方でした。当山の縁起によりますと、易博士(えきはかせ)の占いに「河内国和泉郡の山中に、龍王が世にもまれな御仏の像を護持しているから、請い受けて礼拝供養すれば御悩みはもちろん、すべての厄難は雲散霧消する」とのことでしたので、天皇は直ちに東大寺大仏建立のため諸国勧進を終えたばかりの「行基大徳」をお招きになり、霊像探査の勅命を下されました。その時、行基大徳は七十八歳の高齢でしたが、和泉の山谷を巡行し、龍王の棲むと思われる霊瀑を探ね、その横の大きな岩に端座(たんざ)祈願すること三昼夜、深夜に至って、ついに龍王が出現し、右掌に尊像を捧げて大徳に授けられました。これこそまぎれもなく物部守屋ら排仏時以来、ずっと行く方の知れなかった「あびこ山聖観世音像」でした。

行基大徳は感激して直ちに都に帰り、御病床に安置して修法祈念を続けると、あれほどの重病もご快癒されたので、天皇のお悦びは極まりなく、宮中において長らく丁重に供養礼拝され、その後霊瀑のほとりに一寺を建立され、尊像を安置して、報謝の誠を捧げられました。

後世に至って「二間(ふたま)の観音」といわれるのは、まさしく御座所から二間目のお座敷において供養し、祈念されたので、このように伝えられました。

高野山からあびこ山へ還御(かんぎょ)

しかし、文明元年(西暦一四六九年) 二月、この山中の寺院も応仁の乱の戦禍で焼失し、聖観世音の霊像は寺僧によって、何とか高野山小田原谷の聖無動院に安置され、危うく再度の法難を避けることが出来ました。

さらに、百二十余年の歳月が流れて天正十八年(西暦一五九〇年)、豊臣方の大軍に囲まれて落城した相州小田原の城主であった「北条氏直」が、重臣の東二郎左衛門を従えて高野山へ隠遁(いんとん)し、小田原谷の高室(たかむろ)で剃髪(ていはつ)、三郎左衛門も同院の長任阿閣梨(ちょうにんあじゃり)の教えを受けて得度(とくど)注し、名を快敬と改めました。

この快敬は、隣接する聖無動院の一寸八分の聖観世音を尊んで信仰し、日夜怠らずに礼拝するうち、ある夜、夢枕に「われは百済聖明王の世に渡来、あびこ山観世音とまつられた「聖観世音菩薩」である。なんじ仏門に入って、われを再びあびこ山に還らしめよ、必ず無辺の功徳を顕す(あらわす)であろう」とのお告げをうけました。快敬道心は歓喜して師匠の僧侶に報告すると、「あびこ山観音寺は、行基大徳である高祖弘法大師が滞在された霊刹(れいさつ)注6で、この小田原谷西明院第十三世「夢元大僧正」も、肥前平戸、松浦候より我孫子村を賜り、観音寺の再興に尽されている。直ちに霊像を捧じて下山するがよい」と命じられました。

快敬は、この不思議な出来事に感激して、聖無動院から霊像を拝受してあびこに下山し、御本尊仏の胎内に安置し奉りました。

(注5)得度(とくど)仏教における僧侶となるための出家の儀式

(注6)霊刹 (れいさつ)霊験のあらたかな仏を祭った寺。霊寺

快敬法王と徳川家康

快敬上人は、俗名を東三郎左衛門といい、若年のころ駿河の今川義元に仕えていました。当時、三河の松平竹千代(後の徳川家康)は人質として今川家に預けられ、三郎左衛門は、竹千代の境遇に同情して親身になって世話を続けましたが、やがて桶狭間の一戦で、今川家は滅亡しました。仕える主人をなくした三郎左衛門は、北条氏直を頼りましたが、小田原が落城して高野山に隠遁しました。これを伝え聞いた家康は、旧恩に報いるため、快敬法主の子供である助左衛門を召し出し、駿府城勤番として五百石を与えました。

元和元年(西暦一六一五年)、家康は十八万五千の大軍を動かして、大阪城総攻めにかかりました。ところが、大阪方の軍師である「真田幸村」は「毛利勝永」に呼びかけ、大軍で一気に家康の本陣を攻め滅ぼそうと、六文銭の旗印のもと決死の進撃を続けました。徳川勢は散々に蹴散らされて敗走し、ついに家康は家来の東助左衛門とたった二騎となり、何とかあびこ山観音寺に逃れてきて、本堂で読経していた老僧に救いを求めました。この老僧こそ家康の旧知で、助左衛門の父であった「快敬法主」だったのです。奇遇に驚くと同時に、急いで二人を須弥檀(しゅみだん)の中に匿いました。すぐに追ってきた真田十勇士の軍勢は、境内を隈なく探索しましたが、観世音菩薩の御加護によって、二人は九死に一生を得ました。

やがて、大阪城が落城しました。家康は凱旋して、快敬法主に御本尊胎内仏を江戸城鎮護の念持仏として、しばらく赤羽根の円明院に奉って安置したいと願い求め、あびこ観音寺の寺領拡張と堂塔の増築を行ない、助左衛門には所領を千石に加増して、快敬法主のご恩に報いました。

翌元和二年、東助左衛門は家康の寵児である「頼宣」に従って紀州に入国し忠実に勤務し、老後、家督を跡取りの「仁左衛門」にゆずり、紀ノ川上流の伊都郡短野村の所領に隠居しました。父である快敬法主の没後は、信徒の願いにより剃髪して「盛長」と号し、あびこ山の法灯を継いで、布教と寺門の興隆に努めました。

寛永十七年(西暦一六四〇年)四月、東照神君十五回忌法要には盛長法主も上京し、三代将軍「家光」に謁見して赤羽根円明院安置のあびこ山観音寺本尊胎内仏の帰山を請願しました。こうして、聖観世音の霊像は二十五年振りに帰山し、紀州「頼宣公」も同道してあびこ山に参詣され、寺領を寄付して先君御守護の報恩謝徳の意を表わしました。

このようにして、胎内仏御本尊の帰山がかない、霊験とご利益(りやく)は日々あらたかに、明治を迎えるに至りました。

明治の大火と中興上人「栄基法主」

明治初期のあびこ山観音寺は、数々の寺宝を所蔵していましたが、明治十四年四月九日の火災で、残念なことに堂塔伽藍のほとんどが焼失しました。境内は廃墟となり、廃寺にならんとしていた折、中興上人「栄基法主」が復興の大願をおこし、多くの信徒の協力を得て、ついに九州阿蘇山麓の木材を切り出し、本堂、庫裡、護摩堂、山門、その他現存の建物を再建することができました。一時、途絶えていた「節分厄除大法会」も復活させ、往時の隆盛を取り戻しました。また、南海高野線「あびこ前」駅の新設にも尽力して、参詣者の利便も図り、今日の盛況の基礎を樹立しました。

先代法主の「東栄健」師が、あびこ山の伝統と、日本最古の「聖観世音菩薩」を頂いて昭和二十一年に「観音宗」を開創し、今日に至っています。 「東栄健」師 は、快敬法主の末裔(まつえい)であり、師が綿々と法灯を継承して今日に至っていることは、他に類のない吾彦山の誇りであります。

年表

古代
古代の我孫子地方は、住の江(今の住吉)とともに美しい海浜で、弥生時代には「依網(よさみ)の我孫子一族」が漁業や農耕を党み、航海術にもすぐれていたので、遠く朝鮮半島の新羅(しらぎ)や百済(くだら)とも交易し、大陸からの帰化人も定住するなど高度な文化をもった平和な聚落だった。
西暦紀元
二〇〇年
西暦紀元前三六年(崇神天皇六十四年)十月、勅命による潅漑池依網池の完成が「日本書紀」に載っていることも、大昔から農耕が盛んだった証拠である。
仲哀天見九年九月、神功皇后新羅新征の時、依網吾彦男垂見(おのたるみ)を水軍の祭神主(提督)とされた(日本書紀)。
三五五年
仁徳天皇四十三年九月、依羅屯倉阿弭古(よさみのみやけのあびこ)、鷹を献上した。鷹狩のはじめである(同)。
五五二年
欽明天皇十三年十月、聖明王は仏像と経巻を献納、大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)はこれを賜わって、飛島の向原寺に安置。物部尾輿(もののべ の おこし)ら排仏運動を起こして寺を焼き、仏像を難波(なにわ)の堀 江に捨てた(日本書紀)。依網の百済帰化僧が我係子の聖観音像を秘かに和泉山中に隠して法難を避けた(寺伝)。
五八七年
用明天皇二年七月、厩戸皇子(うまやどのみこ)(後の聖徳大子)、蘇我馬子(そが の うまこ)らが排仏派の物部守屋一族を滅ぼして仏教興隆の端を開く(日本書紀)。
五八八年
崇峻天皇元年、百済より仏舎利・僧侶・寺エ・仏師・画工らを献ず(同)。
六月、依網吾彦男垂見の子らが和泉山中に聖観音像を探索したが行く方が知れず、その母体一尺八寸の聖観音像を百済王に乞い、任那の牟婁より請来して我孫子の草庵に安置し奉る(寺伝)。
六〇六年
推古天皇十四年五月、聖徳太子が阿胡浦(あこのうら)(我孫子浦)にお成りになり、観音丘の草庵に聖観音像を拝して跪坐合掌、「阿胡浦は風光明眉、観音霊場にふさわしい浄域である。伽藍を造立して尊像を奉安するよう」と造営費を下賜。依網の人々は歓喜してあびこ山観音寺の創建に着手した(寺伝)。
六一八年
推古天皇二十六年四月十八日、十二年の星霜を重ねてあびこ山聖観音寺の大伽藍落慶法曾が盛大に行われ、難波全域によろこびが満ち溢れた(寺伝)。
六九二年
持統天皇六年五月、天皇阿古浦行宮(あんくう)に行幸、紀伊の海女たちが見事な鮮魚を献上(書紀)。
七四〇年
天平十二年六月、聖武天皇は諸国の大寺に七重の塔を建立(続日本紀)、吾彦山観音寺を勅願寺とした(寺伝)。
七四五年
天平十七年九月十九日、聖武天皇は難波宮(なにわのみや)で御病気(続日本紀)。勅命によって行基大徳は約二〇〇年前に法難を避けて行く方不明となったあびこ観音像を探ねて和泉山中に入り、霊瀑より出現の同観音像を得て、宮中に安置したところ霊験によって御快癒になった。そこで天皇は霊瀑のほとりに伽藍を創建、この観音像を本尊として恭仰するよう命じ給う(寺伝)。同月二十六日、平城宮に還御(続紀)。
八〇八年
大同三年、唐より帰朝の空海(弘法大師)があびこ山観音寺に留錫中ノ坊を開創(寺伝)。
九ニ―年
延喜二十一年醍醐天皇妃・藤原穏子はあびこ山観音寺に安産祈願のため円珍大特(智証大師)筆の不動明王画像を奉納。寛明(朱雀天皇)、成明王(村上天皇)を御分娩のみぎり同画像が油を流されたので、今に安産祈願の油の不動明王と尊崇されている(寺伝)。
ーニ四九年
建長元年、後深草天皇あびこ山観音寺に宸翰を給う(寺伝)。
一三三一年
元弘元年九月、楠正成が河内に挙兵、甲胄及び菊水の指物を奉納(寺伝)。
一三四七年
正平二年八月、楠正行は細川顕氏を河内藤井寺に、十一月には山名時氏、顕氏らを住吉瓜生野天王寺に破る(太平記)。この戦火で寺門は一時荒廃したが、のち足利義満、同義持の両将軍があびこ山に帰依して復興(寺伝)。
一四六九年
文明元年二月、応仁の乱の兵火で行基創建の伽藍炎上、寺僧が一寸八分の聖観音本尊を高野山小田原谷の聖無動院に移す(寺伝)。
一五四九年
天文十八年十一月、松平竹千代(八才・後の徳川家康)は駿河の今川家に人質となり、義元の実兄・大原雪斉にあずけられ、今川家臣の子・東三郎左衛門(八才)が朋輩衆を命ぜられ、竹千代と親交を結ぶ(南紀徳川史)。
一五六〇年
永禄三年五月、桶狭間の合戦で今川家は滅び、東三郎左衛門は浪々の末、小田原の北条家に仕う(同)。
一五八三年
天正十一年、高野山小田原谷西光院廿三世夢元阿闍梨あびこ山観音寺に住し、肥前平戸侯・松浦鎮信の帰依をうけ、我孫子村を観音寺に寄進さる(紀伊続風土記)。
一五九〇年
天正一八年七月、小田原落城。城主・北条氏直は重臣の東三郎左衛門を従えて高野山小田原谷高室院に入って剃髪穏棲。三郎左衛門は蓮識房長任阿闍梨の教化を受けて法名を快敬と称す。家康は駿府城に入り、旧縁によって三郎左衛門の嫡子・助左衛門を召し出し、駿府勤番を命じて富士裾野に知行五百石を給す(南紀徳川史)。
その後快敬上人は霊夢の告げによって、聖無動院安置の聖観音像が、あびこ山観音寺の本尊仏であることを知り、乞いうけてあびこ山観音寺に移し寺門の復興に努める(寺伝)。
一六一五年
元和元年五月、大阪夏の陣。大御所・家康と東助左衛門の主従は真田幸村の十勇士の追撃をうけてあびこ山観音寺に人り、快敬上人と奇遇し、観音菩薩の御利生によって危急を脱し、念持仏とするため霊瀑出現の聖観音像を乞いうけて二条城に入る。大阪落城後、家康あびこ山の堂宇を増築、寺領の拡張を図り、助左衛門を知行一千石に加増(南紀徳川史・寺伝)。
同年秋、家康は江戸城に入り、聖観音像を赤羽根の円明院に安置、国土鎮護・徳川家安泰の鎮護仏とす(寺伝)。
一六一六年
元和二年四月、大御所・家康死。五月、家康の十一子・頼宣紀州に入国、助左衛門も同行したが、家督を嫡子・仁左衛門にゆずり、伊都郡短野村(視在の妙寺町)の所領に隠棲頼宣より御功米八十石を賜う(寺伝・南紀徳川史)。
ほどなく快敬法主が遷化、助左衛門あびこ山の法灯を継ぐ。法名は盛長上人(寺伝)。
一六四〇年
寛永十七年四月、東照神君(家康)二十五回忌、盛長法主は上府、法要に参列、紀州侯頼宣を通じて将軍秀忠に、赤羽根円明院に安置の聖観音像のあびこ山への帰山を要請、二十五年ぶりで御本尊帰山(寺伝)。
一六四四年
寛永二十一年三月、盛長法主遷化。当時の寺域は六万余坪、塔頭三十八ヵ所、坊舎十坊。
一八八一年
明治十四年四月九日、あびこ山寺に大火、堂塔伽藍炎上、国宝、准国宝三百数十点および古記録ことごとく焼失。
一八九七年
明治三十年三月、本堂落慶、翌三十一年三月には庫裏、三十五年には山門、三十九年には護摩堂も竣工した。
一九一〇年
明治四十三年、地蔵堂、薬師堂が落慶、翌四十四年、観音礼拝所、翌年には信徒休憩所が竣工。
一九四六年
昭和二十一年八月十三日、吾彦山大聖観音寺に観音宗を開創。
一九六九年
昭和四十四年十一月、修験行者詰所新増築完成。
一九七九年
昭和五十三年十一月、護摩堂を改修し、新築落成式を行う。
一九八三年
昭和五十七年、白龍辮財天を祀る金辰殿を改修・新築。
一九八五年
昭和五十九年十月、新しく大日堂を増築完成。
一九八八年
昭和六十二年九月、境内南側にあびこ福祉会館を建設。
一九九八年
平成十年十一月、本堂改修し、落慶法要。